2006年12月20日

『萩原朔太郎の詩、こころに着想を得て作詞されました』の不思議

 アニメ映画「ゲド戦記」の主題歌の歌詞が萩原朔太郎の詩に酷似しているということで、少し前に新聞等で騒がれておりましたが、「スタジオジブリの広報が「テルーの唄の作詞について記載される場合は『萩原朔太郎の詩、こころに着想を得て作詞されました』と表記していただくようお願いいたします」と初めて見解」を表したという記事が12月6日の
http://www.nikkansports.com/entertainment/p-et-tp0-20061206-126496.html に掲載されました(同日現在スタジオジブリHPではそのような記載がありません)。
 この問題が騒がれ始めてからずっと、なぜこのようなことを取りざたするのかというのが私には不思議でした。宮崎吾郎監督自身同詩に感化されたということをお話されているのであり、それを超えてなお「『作詞・宮崎吾朗』とすることに、少しのためらいも感じなかったのだろうか。ここは『原詩・萩原朔太郎 編詞・宮崎吾朗』とでもするべきではないか」とか、「しかし、朔太郎の詩がなければこの歌詞が書けないことは明らか。モラルの問題として、朔太郎への感謝の言葉を入れるべきだ。」などと批判されるのはいささかいきすぎではないかと思うのです。http://www.mainichi-msn.co.jp/entertainment/manga/manganews/news/20061021org00m200001000c.html
 もちろん、朔太郎の詩の雰囲気を壊したり、本人や作品を貶めるように利用しているのであれば、朔太郎のご遺族、ご関係者が苦言を呈する等は当然でしょう。しかしそれ以外で「モラルの問題」云々というのはいかがなものでしょうか。
 そもそも、萩原朔太郎(1886-1942)の著作権は1983年に消滅しているのです。著作権が消滅してなお「表現を微妙に変えていて、「こころ」の盗作とは言い難い」だのというコメントはちょっとおかしくないでしょうか。感謝が足りないという意見もありますが、感謝や感動は人から強制されるものではありませんし、強要されるものではないと思うのですが…さらにこの記事のタイトルが「「ゲド戦記」主題歌“パクリ”認めた」ですから、なにをか言わんという感じです。
 そんなことを言い始めたら、「コンピュータゲーム『サクラ大戦3 〜巴里は燃えているか〜』は制作初期に『舞姫』をモデルにした作品と発表された」そうですが、その時に「原案:森鴎外」と書くべきだと誰かいったのでしょうか、またそう書いてあるんでしょうか。他にも同様な例は幾らもあると思いますが、すべてそのように記載されなければならないのでしょうか。
 過去の作品に触発されることによって新たな作品が生まれるというのが文化所産のあり方であり、そのために著作物は一定の保護期間の後公共財として新たな文化の発展の役割を担う様になるのですから、参考にした、触発された全ての著作物を列挙しなければならないとしたら、それだけで疲弊してしまい、新たな作品どころではなくなるかも知れません。自分の創作がどこにインスピレーションを受けたか探ろうと思ったら、これまでに接触した全ての著作物をひもといていかなければならないでしょう。
 権利や著作権についてきちんとした見解をもち、管理をしている(であろう)スタジオジブリがなぜこの様なコメントを、この時期に発表したのか真意のほどは計りかねますが、正しい著作権の理解という立場からは、この問題に掛かる一連の発言については、著作権が消滅していること、監督自身も参考にしまた敬愛していると点をきちんと説明するにとどめておいてほしかったと思います。
 こうやって「権利者」の発言に応じてどんどん新しい「権利」や「慣例」が出来るのは良い傾向とは言えないでしょう。それがどのような問題に繋がるのかと思うと、利用者としてはちょっと背筋が寒くなるのを覚えます・・
 著作権は道徳、モラルだという方針で学校等での著作権教育は進んでいます。しかし道徳とは自発的に正しい行為へと促す内面的原理の根幹となる指針です。感謝が強制されるように道徳が強制されることのないように、モラル教育と併せて著作権教育を考える必要があると思います。

(E)
 



posted by 著作権教育フォーラム at 15:13| Comment(1) | TrackBack(0) | コラム